ジル・ドゥルーズ「追伸―管理社会について」

1990年に発表された有名な論文。河出文庫『記号と事件』所収。久々に読み返してみた。

この文章は、フーコーの生権力論を引き継いで書かれたもので、3つのパートに分かれている。

【1 沿革】

最初のパートでドゥルーズは、新しい権力の形が台頭しつつあることを指摘する。フーコーが提示した規律社会は、18世紀に誕生した。その社会で規律訓練の対象となる個人は、ある監禁環境から、また別の監禁環境へと、それぞれ独自の論理を持つ閉鎖的な監禁環境を移行するという特徴がある。例えば学校→工場といった具合だ。

しかし、規律社会は20世紀にピークを迎えた短命な権力形式であり、現代ではそれに代わる新しい権力が台頭している。この新たな権力というのが、管理(control)型の権力である。

ところで河出文庫版では、ここで誤訳と思われる箇所がある。

しかし規律もやがて危機をむかえ、その結果、新たな諸力がゆっくり時間をかけて整えられていく。しかし、新たな諸力もまた、第二次大戦後に壊滅の時代をむかえる(p.357)

これだと、20世紀末に書かれたこの論文がまさに問題としている「新たな諸力」というものが、20世紀半ばにすでに壊滅していたことになってしまう。おかしいぞと思って手元にあったドゥルーズによる英訳を見た。するとこの箇所では、新たな諸力が第二次大戦後に急速に発達した、という意味のことを言っていた。以下のようになるんじゃないかと思う。

しかし今度は、ゆっくり時間をかけて整えられ第二次大戦後に加速した新たな諸力のために、規律が危機をむかえた(英語版、October vol.59, p.3参照)


【2 論理】

では管理社会とはどんなロジックで動いているのか、ということで論理のパート。ここでは、規律社会はこういう特徴がある、他方管理社会はこういう特徴がある、といったように2つを対比させる形で語っている。

既に触れたように、規律社会では、規律訓練の対象となる個人がそれぞれ異なる法則を持つ監禁環境を移動していく特徴があるが、ドゥルーズはそれを「鋳型」、「見せかけの放免」などと説明する。

他方、管理社会は「転調」、「果てしない引き伸ばし」だという。

規律社会から管理社会への移行は、工場が企業にとってかわることであり、分割不能な個人の身体が分割可能なデータとなること、全てがデータとして管理されるようになることである。

言いかえれば、規律社会では、個々の属性に応じて、各監禁空間へと人々を囲い込み、規範を内面化させ、従順な身体になるように訓練を施していた。しかし管理社会では、そのような空間を必要とせず、全てをデータに置き換え、コードによって個々人を直接制御するような社会になるのだ。


【3 プログラム】

最後のパートでは、1990年時点での管理社会のイメージを書いている。例えば、エレクトロニクスのカードを持っていれば、その場所に自由に出入り出来るというシステムがあるとする。しかし、同じカードを持っていても、ある時間帯には通れないといったことが起こる。別に警備員に殴られるわけでもなく、また規範の内面化とも関係ない。あらゆる場所で、あらゆるものをデータとして処理し、そのデータを基に行動を制御していくという仕方が管理社会の在り方だということだ。

 

感想。新しい古典のような感じで、そうだよなあと思いながら読める。90年には朧げだっただろう管理社会のイメージも、今なら経験的に理解できる。

社会管理の道具であるマーケティングに対抗する武器を手に入れること。マーケティングが捉えられないような、何者なのかよくわからない人になることなのだろうか。あるいは、それもまた補足されるのか。

ところで、ドゥルーズの書き方だと規律→管理へと権力形式が移行したように読める。しかし規律は、古典的な権力形式だとしても、依然として残り続けている。規律と管理(制御)は共存している、と捉えるべきだろう。

 

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)