京都「大仏」観光(前編)

 

北八(喜多八)「ヲヤヲヤごうせへなお寺だ。アレ山門のうえから佛さまがのぞひている」

弥次「ハハアこれが、かの大佛だはへ。なるほどはなしにきいたよりは、ごうてきなものだ」

 

十返舎一九の大ベストセラー『東海道中膝栗毛』六編上のラストシーン、主人公の弥次さん喜多さんは、女性にみとれながら歩いている途中で、大仏を発見します。

そして続く六篇下はその大仏の話から始まります。弥次喜多は、この大仏の手のひらには畳が八畳しける、鼻の穴からは人が傘をさして出られるだの言って、その大きさに感心します。

 

弥次「ヲヤお背中に窓があいてゐらア」

北八「あれは大かた汐をふくところだろう」

弥次「ナニ鯨じやアあるめへし」

 

ここで弥次喜多が見た巨大な大仏は、奈良の大仏ではなく京都の大仏です。

今はもうありませんが、かつて京都の方広寺には、秀吉が作らせた巨大な大仏がありました。

大仏殿は高さ約49メートル、南北約88メートル、東西約54メートルという壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館妙法院智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった。(京の大仏 - Wikipedia

 

有名な京のわらべ歌に、「京の 京の 大仏っぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った…」と歌われているように、大仏は焼失してしまいました。

ですので今ではその姿を見ることはできませんが、「大仏の痕跡」を辿ることはできるようです。そしてそのための良い本があります。

『京都の凸凹を歩く』(梅林秀行著)という本で、京都の凸凹地形に注目して歴史の痕跡を辿っています。

「大仏」はpp.54-69でとりあげられています。「大仏」とは方広寺にあった大仏さんのことです。さらには、その方広寺智積院妙法院三十三間堂あたり一帯の空間を表す名称でもあったようです。

 

この本(以下『京都凸凹』)を手にして、京都の「大仏」を観光しました。

今回は四条河原町あたりから川端通り沿いを七条方面に南下していきました。しばらく歩くと正面通りという道が見えてきました。かつての大仏殿への参道です。江戸時代の絵図にも「正メン」などと書かれており、通りの名自体も歴史の痕跡だと言えます。

f:id:biko0:20170510000040j:plain
【正面通りと川端通りの交差点あたり】 

 

この正面通を東行すると、途中で道幅がやけに広くなります。

ちょうど道幅が広くなったあたりに、有名な「耳塚」があります。

『京都凸凹』には、耳塚の周囲に明治時代の著名な芸能人たちの名前が刻まれた石柵が並んでいると書いてありました。耳塚自体は学校でも習っていたので、存在は知っていましたが、まだ行ったことがなく、明治期の芸人たちの名が刻まれているとは知りませんでした。

実際に見てみるとかなりの数の石柵があり、奉納した芸能者たちの名が確かに刻まれていました。中村鴈治郎川上音二郎といったそうそうたる面々です。浪曲師の桃中軒雲右衛門の名前もあると聞いていたので探してみました。それっぽいのはありましたがはっきり読めません。また、東側に車がぴったり停まっていたので全ての石柵を見ることは出来ませんでした。

f:id:biko0:20170510000248j:plain
川上音二郎(真ん中)】

f:id:biko0:20170510000303j:plain
【桃中軒雲右衛門らしき石柵(右)】

f:id:biko0:20170510003927j:plain

【耳塚。ダークツーリズム。】

 

道幅が広がった正面通をさらに東へ進むと、豊国神社の前で大和大路通と交差し、やたらと広い空間を形作っています。『京都凸凹』で、この空間は「広場」「劇場」と紹介されているように、「豊国祭礼図屏風」(狩野内膳)に描かれた風流踊に興じる人々が踊った場所だそうです。

 では、その屏風絵もある豊国神社へ。秀吉は没後、豊国大明神として豊国社に祀られましたが徳川時代に廃絶。現在の豊国神社は、旧方広寺大仏殿があった場所に、秀吉を再び祀るため明治期に復興されたものです。

f:id:biko0:20170510000851j:plain

【境内の敷石には大仏殿の床にあった石が転用されており、落雷焼失時の損傷跡の残る石が混ざっているとのこと。これかな?】 

 

社務所の前に置かれたおみくじの説明書きは萌え絵。奥に見えるのは『刀剣乱舞』か何かのフィギュアかと思われます。最近京都の寺社で刀剣乱舞を見かける機会がやけに多いです。

f:id:biko0:20170510001036j:plain
【萌え絵によるおみくじの説明。誰が書いているのか。】

 

その社務所で豊国神社宝物館の入場券を買って、宝物館へ。大人300円です。

この宝物館に『豊国祭礼図屏風』があります。この屏風で描かれているのは、中世的な民衆エネルギーの最後の大爆発などと評価される豊国大明神臨時祭礼の様子*1。秀吉七回忌(1604年)に行われた熱狂的な祭です。まさに正面通を「舞台」に、熱狂的な風流踊りに興じる人々、寿老人だのタケノコ(!)だのといった不思議なコスプレをした人たちも発見。

f:id:biko0:20170510001528j:plain
【狩野内膳『豊国祭礼図屏風』部分】

 

この宝物殿の近くに大仏殿基壇の跡地があります。

f:id:biko0:20170510002246j:plain
【大仏殿基壇の跡地】
この盛り上がった場所です。

境内を出て豊国神社の周りを囲う石垣も見ました。大仏殿の石垣とのことで、碑もありました。

f:id:biko0:20170510002720j:plain

【大佛殿石垣 天正十四年 豊臣秀吉築造】

f:id:biko0:20170510002952j:plain
【大仏殿石垣。隙間にお地蔵さんがいました。】

この後、豊国廟に行ったりしましたが、とりあえず今日はここで。

後篇に続く。

 

参考にした本

梅林秀行『京都の凸凹を歩く』青幻舎

十返舎一九東海道中膝栗毛』(下)岩波文庫

中川真平安京 音の宇宙』平凡社ライブラリー

*1:中川真平安京 音の宇宙』第8章